こっちの水苦いぞ

2015年5月14日 (木)

ライブのCM

昨日の巨人戦は、録画して実際には見なかった。
だって、また、大瀬良君に無援護の予感がひしひしとして、見ていられなかったから。

本当に、0対1で負けてしまった。

可哀想な大瀬良君。

だから、録画は見ないつもりだったが、J友さんから、JulieのライブCMが流れたというメールが来た。


ゴールデンタイムにCM
しかし試合展開のせいで、広島の人はあまり見てないかもしれません

TOKIO→ギャル→カサブランカ→バッドチューニング→勝手→きめ今→ストリッパー、と当時の映像が来て、赤酋長なんですけど、よーく聴いたらROCK'N'ROLL MARCHのようです。


だから、そこだけを見た。
テンションが上がる
カープはだけど。

2015年4月27日 (月)

改めて『こっちの水苦いぞ』を聴く

地方選挙が終わった。
私らが出来る意思表示は選挙。
これは義務ではなくて権利だ。
棄権なんてもったいなくて出来ないから、投票してできる限りの意思表示をした。

選挙カーがうるさかった。
ほとんどお願いばかり。名前と「お願いします」の連呼。
こっちがお願いしたいわと思う。
しっかり活動してねと。

今日は、改めて、『こっちの水苦いぞ」を聴いている。

現実をしっかり見よう。
事実を見誤るな。
無関心になるまい。
我が身の目先の得だけで生きちゃいけない。
忘れない。

聴きながら、次々と想いが溢れて胸がいっぱいになった。

私の人生、終わりの始まりに入っている。
人生の最後の部分をどう生きるか、Julieがヒントをくれる。


Julieは、名古屋が終わって、明日から、小倉公演。
いよいよ、広島が近づいてきた。
Julieに逢えるのももうすぐだ。

2015年4月15日 (水)

Julieは語り部

戦後70年の今、ヒロシマ・ナガサキ・オキナワ、各地の空襲、諸々の戦争の体験を語る語り部の方々は、みなさんご高齢だ。

幾人か聴かせた頂いたが、我が身に受けた話は生々しくて、絶対に平和でなければならないという決意を新たにしてきた。

語り部の生の声は、とても心に響く。
それは当然なことだ。
生の声、生の表情に勝るものはない。

語り部の方々がいなくなったとき、では、もう語ることは出来なくなるのか。

いや、そういうことはないと思う。

絵画、映画、書物、絵本、音楽、肉声のテープ、いろいろある。
でも、いちばんは、生の声。
戦争体験はなくても、伝えようという強い心とみがいた技術があれば、語り部になりうる。

その取り組みは、すでに各地でなされているはずだ。

そこで、考えるのは、Julieのことだ。

誰に頼まれたのでもない。
Julieは、自ら紡ぐ言葉と、仲間の作る音楽と、何より秀でた生の歌声でもって、心に溢れるものを伝えることができる優れた語り部ではないのかと思う。

まるで体験した人のように被災の有様を歌うことのできるJulieは、天与の語り部なのだろう。

2015年4月14日 (火)

渋谷公会堂

LIVE2015「こっちの水は苦いぞ」の10月2、3、4日は、渋谷公会堂でのLIVEだ。

渋谷公会堂は、JulieのLIVEを最後に解体されて、その後建て替え工事が行われて2018年に新装オープンする予定となっている。

3年後か…
どうなっているだろうね。

最後の渋公LIVEがJulieということで、沢山の人が申し込みをした。
そして、沢山の人に落選のはがきが届いているらしい。
広島のJ友さんも来たと言っていた。

私は、端から申し込まなかった。
10年前の私なら、絶対申し込んでいる。何とかして行こうとしただろう。

これは何ですかね。
事情が諸々にできたんですねえ。

10月は、12日の高松と31日の岡山を申し込んだ。
渋谷へ行くと月3回の遠征になる。
それは出来ないというのが私の判断だ。
もっとも、申し込んでも落選の確率は高かっただろうけれど。

50年の歴史に幕を下ろす渋公での本当に最後のLIVEの模様は、是非、DVDにして欲しい。
NHKさんあたり、放送しませんか?
そうすれば、JulieもすぐにDVDにしてくれるだろう。
行けない者のためによろしく!

2015年3月24日 (火)

限界臨界

「限界臨界」の意味をまた考えている。

どうしても考えてしまう。わかり切れないからだ。

限界臨界で検索したら、その違いを問うページがヒットした。

その答えは、こうだ。

「臨界」は、物質がある状態から別の状態へ変化する境界ですが、「限界」は、物事の範囲、能力、程度などが、これ以外、これ以上は無いと云う、ぎりぎりの所ですよ。 すなわち、「臨界」は、まだ途中で、「限界」は最後です。

「限界臨界」を何度も聴いてもスッキリ理解出来ない。
Julieはどういう意味で使っているのだろう。

「臨界点に達する」という言葉がある。
これは、限界になる、ギリギリになる、極限に達するという意味だ。
つまり、「限界」と同義語だ。

これなら分かる。そういう意味だろうか。

限界が極限まで行っているということなら納得できる。
それとも、そこから別な状態へ変化するかもしれない、それは何かわからないけれど、それを暗示しているのだろうか。

まだ聴き方が足りないかもしれない。
感じ取りたいなあ。

「限界」という言葉は、「泣きべそなブラッド・ムーン」でも使われている。

4曲通して、もう限界なんだという危険信号がチカチカしているのを感じる。

2015年3月23日 (月)

桜前線

春の日差しが気持ちを暖かくさせてくれる午後。

ふと桜前線が気になり検索した。

バックの音楽は「こっちの水苦いぞ」なので、決して明るくはないのだけど、むしろずっしり重いのだけど、ずっと聴いていたら、反動なのか何か明るいものが欲しくなった。
それに春の明るい日差しが後押しして、桜前線という思いになったみたいだ。

「こっちの水苦いぞ」を聴きながら桜前線。

Sakura2015 

Sakura

昨年の「櫻舗道」をすぐに思い出して聴くことにした。
「こっちの水苦いぞ」からチェンジ。

悲しい曲だけれど、青い空と美しい桜を想像するから明るさの中の哀しみ。
これに対応というのはおかしいが、「泣きべそなブラッド・ムーン」が桜に対しての月かなと感じた。

「爛漫桜」に対する「ブラッドムーン」。
Julieはちゃんと、美しいものを入れてくれていたと気づいた。
美しいものは余計悲しみをますけれど。

今度は「泣きべそなブラッド・ムーン」を聴く。

精霊、晴れた東の空、静かな皆既月食、花束、道ばたの花…

この後の曲が、美しいものも何もかも焼き尽くす地獄の津波火災の歌なのが辛い。

2015年3月19日 (木)

津波火災の怖さ

津波で火災が起こることを忘れていた。

気仙沼の映像はショックだった。

Julieが涙して見たのは気仙沼だろうか。

「涙まみれFIRE FIGHTER」は、きっとJulie自身だと思う。

地震、津波そして火災…

それは地獄絵。受け入れがたい絶望。

とても怖い。

それと違う怖さが放射線。

さらに怖いのは襲い来る風化…

ああ…

Julieは歌わずにはいられないのだよ。

2015年3月18日 (水)

難しい二字熟語

3曲目、4曲目は、ただ心で聴こうと思う。

だけど、やっぱり、歌詞カードを見てしまった。

「泣きべそなブラッド・ムーン」の中の二字熟語が気になって。

鬱憤・辛抱・慚愧

邂逅・後悔・懺悔

まるで漢字テストみたいな二字熟語が並ぶ。

何とか読めるが、書けない。辛抱と後悔くらいしか書けない。

こんな固い言葉だが、花束にして手渡したいと言う。
10月8日の全てを花束にして。

10月8日の全ての中には、もちろん、あのブラッドー・ムーン(皆既月食)があり、この難しい2字熟語の意味がある。

【花束にし 手渡したい 君にも 君にも】

誰に手渡したいの?

君って誰?

ああ、また考えている。いかんね。

2015年3月17日 (火)

薔薇撒き・薔薇色

薔薇という漢字を見れば、超絶美しい若Julieを思い浮かべる。
ロマンチックな漢字。
Bara

いや、Julieは桜かな。それはいいとして。

「限界臨界」の「薔薇」はまったく別物。

ばら撒きなのだ。支援というお金のばら撒きなのだ。薔薇を当て字にしている。
美しい薔薇には刺がある?

薔薇色政治家、薔薇色経済人は?

ばら撒きを行ってきた政治家や経済人ということかしら?

薔薇色というのは、希望や幸福などに満ちている喩えにも使われる。
バラ色の人生とか。

自分たちには薔薇色になることをやっている政治家や経済人ということかしら。

次々に考えてしまうJulieの歌。

でも、あまり理屈を考えないで、感覚を研ぎ澄まして聴くのがいいのかもしれない。

2015年3月16日 (月)

馬鹿にしない

「限界臨界」を聴いている。

Julieが想うのは弱者。

1番は、被災者、動けない弱い者、悲しみに耐える者。

2番は、善人、未熟でも若い者、先行きに迷う者。

彼らをこれ以上、「馬鹿にしない」と歌う。

聴いていて、「馬鹿に」と声が大きくなった時、次は、「するな!」だと思った。

だけど、Julieは、強い気持ちを表しても攻撃的ではなかった。

♪本音汲んで下さい 心誠下さい♪

♪愛と平和下さい 生きる希望下さい♪

と、穏やかに切実に訴える。

「馬鹿にしない」の続きは書いてないが、「社会にしようよ」や「国にしようよ」がくるのだろうか。

私は、Julieが歌う弱者のどれでもない。
では、私は強者?
いえいえ、決して、一握り人ではない。
では、何?

見て見ぬふりをするなら、または無関心なら、私は強者側に立ってしまう。

Julieが訴えているのは、私のようなどっちでもない大多数の人たちへではないかしら。

猶予はない。もう限界なのだ。

私はどっちでもないと言ったが、よく考えれば私も弱者にもうすぐなる。
老人という弱者になる日は近い。
馬鹿にされたくないよ。
優しさがほしいよ。
生きる希望をもっていたいよ。と思う。

弱い者を馬鹿にしない国がいいよ。